橋に明りを灯すこと

橋に明りを灯すこと

本の話と生活のこと。

切り取れる生活も底をつくことがある


ブログやSNS、動画配信、最近のネットでは自分の生活を皆へ公開する傾向にある。
わたし自身も、こうやって文章にして私の頭の中をかっぴらく。

頭の中は無限大である。 なにかしらを見る・聞く・読む・食べるなどすれば、すぐに新たな思考が生まれ始める。 毎日ひとつは新たな考え、あるいは感情が脳内を訪れてくる。 生きている限り、思考が完全に停止する日はないように思える。

生活は頭の中とは違う。 人のブログを読んでも、「読む」という行為によって変化が起きるわけではない。 新しい食べ物を食べても、体がすぐに大きくなるわけでもない。 生活の変化は、自分が何かを行った(良いこと悪いこと問わず)とき、人に何かを行われたとき、長い経過の結果にあるのではと思う。

睡眠、食事、仕事のサイクル。なんら変化のない平凡な日常を繰り返す。 その日々のなかで、普段のサイクルから外れた日を私たちはネットに晒す。 あるいは、ネットに晒すためにサイクルから外れる人もいる。 サイクルごとネットに寄り添う人もいるだろう。

お洒落なあの人も、初めからネットに公開できる生活を送っていたとは限らない。 ネットがあるからお洒落な生活を送っているのかもしれない。

あまりにもすべての日常を切り取ると、ネットが生活の中心となる。 ネットに上げるために物を買い、食べ、読み、見て、聞き、遊ぶ。それは悪じゃない。 寝ぼけてばかりの人間よりよっぽどマシだ。

生活を切り取りすぎるあまり、生活がなくなってしまわないように気を付けたい。

内省的日記を書くということ

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“Sometimes life is merely a matter of coffee and whatever intimacy a cup of coffee affords.”
「時に人生とは、コーヒーとその一杯がもたらす親密さの問題に過ぎない。」
- Richard Brautigan

 

『思いわずらうことなく愉しく生きよ』は、まだ十数ページしか読み進めていない。ようやく姉妹のローテション的ナレーションにわたしの頭が慣れてきたところだ。

話の中で、自由奔放な妹が書いていた日記が面白かった。

日記といいながらも、日々の出来事について記述をせず、自分が考えていることや自分の思考を書き留めているようなノートらしい。

わたしも日記を書くときには、あまり出来事を書き留めてはいない。どちらかというと、その日に思いついたことや、よく考えたことなどを書くことが多い。今の時代、携帯の写真フォルダを見返せば自動的に人生のアルバムが出来上がっているのだから、わざわざ文字に起こして出来事を書く必要もないと思っている。

自分の思考は数秒、数時間、あるいは1日経てば忘れてしまう。昨日何を考えていたのか、何を思いついたのか、後から思い返すのは不可能に等しい。

思考だけではなく、悩みだって書き出すといい。書くことで落ち着くとも言われているが、個人的には悩みがなくなったときに見返すと、今では考えられないほどのネガティブ人間が恨み辛みを書き綴っている姿そのものがエンターテイメントだったりする。自分で自分を笑えるのは、わたしが元気になった証拠だ。

自分を面白がるためにも、日々頭の中を書き出していきたい。

江國香織とミーハー読書人間

 

先日から読みはじめていた本を本棚へとリターンし、江國香織の『思いわずらうことなく愉しく生きよ』を読みはじめる。気分の乗らないときには、ひとまず江國香織村上春樹を読めばよいのだ。

 

タイトルの文章は思っていたよりもはやく出てきた。小説のタイトルについてあまり深く考察をしたことはない。作中に出てくると気がつくが、出てこないとほとんどの場合、タイトルの意味など考えもしない。『海辺のカフカ』や『がらくた』は好きな作品だけれど、タイトルが指し示すものがなんであったのかは記憶からぽろぽろ抜け落ちている。なんで好きなのかすら、曖昧なものだって多い。記憶力が悪いというのは、なんど食べてもおいしいということで自分を認める。

 

いままでに読んできた江國香織の作品はすべて女性が主人公の物語だった。本棚には『存在の耐えられない軽さ』(5回は挑戦したが、毎回ものの数ページで挫折)や、大量のポール・オースターたちとともに、わたしの本棚にのこる最後の江國香織作品である『なかなか暮れない夏の夕暮れ』が眠っている。これが世にも珍しい、江國香織が描く男性主人公の長編物語である、らしい。

 

この本を本棚で手にとったときは、江國香織の作品は一冊読んだか読んでないか、という時期だった。いつもであれば、一銭も無駄にはできんとばかりにあらすじを読み、中身を確認し、自分が読むであろう作品だという判決が出てから購入を決意する。しかしこの『なかなか暮れない夏の夕暮れ』に至っては、まったくあらすじを確認しなかった。なぜなら、それがサイン本だったからだ。江國香織をまともに読んでいなかったのにもかかわらず、かの有名な作家のサインだと、ただ物珍しさで購入したのだった。

 

今となっては、当時のわたしのミーハーさに尊敬の念と感謝を送る。そのサイン本をきっかけに、江國作品を読み始め、今ではそのサイン本のみが、わたしの棚で読まれるのを待っている状態になったのだから。もちろん、まだまだ購入できていない江國香織作品は多くある。これからも、大切に一作品ずつ読んでいくつもりだ。

人が死ぬから面白い /グレイズ・アナトミー

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グレイズ・アナトミーNetflixでの配信を終了したと、今日気がついた。

何回も見返すくらい好きなドラマ。

 

グレイズ・アナトミーは名前の通り医療ドラマだけれど、

医療と関係のないところで命を危険に晒しまくる。

患者が亡くなるのは医療ドラマでは当たり前。

でも、このドラマでは医者が高頻度で死にかける。

 

ありえないくらい感情をションダ・ライムズ(脚本家)のジェットコースターで振り回され続けた。

「なんでそいつを殺すんだよ…」と恨みを抱えながら300話以上観た結果、私の考えも変わり始める。

 

その結果、

「ドラマって、メインのキャラが死ねば死ぬほど面白くなるんじゃないか?」

という結論にたどり着いた。

 

決して、死ぬから面白いわけではない。

好きなキャラが死ぬことで感情が大きく揺さぶられる、その感情の起伏が面白いようだった。

 

ちなみにションダが人を殺すときは基本的に役者が降板したときが多い。

彼女なりの生存の選別方法はありそうだけど、単に揉めたからというわけでもなさそう。

ションダ・ライムズが携わるドラマは、基本的に同じような要素を持っている。

彼女のドラマ特有の、他のドラマにはない麻薬のような中毒性があると思う。

 

正式な日本語タイトルは『グレイズ・アナトミー 恋の解剖学』。

海外ドラマにありがちなクソださサブタイトル。むしろ呼びたくなるものだ。